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「大塚久雄の人と学問」

講 師:関口 尚志氏

(フェリス女学院大学国際交流学部教授、東京大学名誉教授)

 ただいまご紹介にあずかりました関口でございます。「大塚久雄の人と学問」というテーマをいただきましてお話しさせていただきます。

 大塚先生は5年半前になりますか、1996年の7月に89歳でその生涯を閉じられました。長年、東京大学それから国際基督教大学で教鞭をとられ、研究としては経済史、この分野ではよく「大塚史学」などと言われますが、比較経済史学を確立されました。更に、そうした経済史の新しい分野を切り拓く、あるいは新しい視角を提起するにあたっては社会科学の方法を再考しなくてはならないということで、そうした研究の必要から「社会科学のあり方」、その方法についても優れた業績を重ねられました。研究の成果は『大塚久雄著作集』全13巻として岩波書店から刊行され、集大成されています。そうした業績によって先生は文化勲章を受けられました。 経済史が文化として評価されたという意味で、大変お喜びになっていたようにお見受けしました。

「大塚史学」の形成と構造

『序説』の誕生

それにしても『著作集』全13巻、量・質ともに大変なお仕事です。
しかも先生は30歳代半ばに左足を切除されました。そして40歳代
の初めには左の肺をほとんど切除するという大手術を受けられています。「大塚史学」形成の道標ともいうべき『近代欧洲経済史序説』、これは敗戦の前年1944年に刊行されていますけれども、戦争末期、大変不自由なときに病床にあって、先生は「何とか書き残しておきたい」ということで「毎日原稿用紙一枚ずつ」「力を振り絞って書上げた」と述懐しておられます。 私が本郷に進学して先生のゼミに加えていただいたのが1953年ですが、昨日のことのように目に浮かぶのですけれども、ゼミはまだ千駄木町のお宅で行われていました。先生のベッドサイドの壁には松葉杖が掛けてある、そういう中で毎週その病床の先生が展開される学問の世界に圧倒されて、本当に頭の芯からヘトヘトに疲れたような思いで帰途についたことでした。生涯、先生は想像を絶する肉体のハンディキャップを負いながら、しかし超人的な精神力、禁欲的な生活態度で、余人が遠く及ばない大きな業績を残されたと思います。

近代化の歴史的起点

それまで世界でいわば常識といいますか、学界の通説となって
た資本主義発展、あるいは市民社会形成史についての見方がござ

いました。それはドイツの歴史学派以来マルクス経済学も含めて世界的な通説となっていた古典理論なのですが、資本主義は貨幣経済なのだから、貨幣経済の発展、あるいは商業の発達、コマーシャライゼーションの結果として資本主義が現れる、と単純に考えていた。 貨幣経済や商業の発展は「人類の歴史とともに古い」存在ですが、そういう古い前期的資本と言われるような営みが拡大し、その延長線上に資本主義が形成されるんだと、コマーシャライゼーションでキャピタリズムの形成を説明するというのが通説だったのです。 けれども、先生はこの通説に疑問を投げられて新しい説明の仕方を提起された。「人類の歴史とともに古い」前期的商人の営みを含めて、貨幣経済の発達一般が、常に、どこででも資本主義(その基礎をなす産業資本の営み)を生み出したとは限らない。商業の発達が奴隷制を強化したり、市場目当ての封建領主の直営地経営を拡大したことも存在する。 西洋近代にみられた資本主義の形成を説明するためには、単なる貨幣経済の発達ではなくて、その貨幣経済のあり方、構造を問う必要があるのではないか。 こうして先生は、新しい市場経済、それも中小の農民や職人たち、そういう勤労大衆を担い手とし、そしてまた彼等の所得を購買力の源泉とするような、そうした新しい市場経済の発展、農村工業を基礎にした中産的生産者層の独立自由な発達、そのうちに資本主義形成の基本線を求めるという、小生産者的発展説を提示されたわけです。

近代化の人間的基礎

その際、経済は人間の営みなのだから、経済、その歴史をとらえ
るには、人間生活の基礎をなす経済だけではなく、人間の社会的

行動を内面から支えている理念、思想、宗教などの文化領域の重みも十分に考慮しなければなりません。だから、先生は経済史研究にあたっては、「経済史的な余りに経済史的な」立場は「これを超えねばならぬ」ということを早くから、そして生涯、強調されました。 「人間類型」への関心、マックス・ヴェーバーが提起した「資本主義の精神」への比較史的な関心こそ、「大塚史学」の核心をなす重要な特徴と言っていいのだと思います。近代化の歴史的起点と人間的基礎について、こうした新しい立場を構想して提唱するということは、大変な挑戦で、しかも、それは経済決定論的な法則史観への批判を意味しますが、大塚先生は直接的にはゾンバルトの克服に自分は血みどろの努力をしたと語っておられました。しかも、そうした世界の通説への批判はまた、ご自分の大学での直接の恩師に対する批判でもあったことを附言しておきます。 ともあれ、いま私は「歴史を研究する前に歴史家を研究しなさい」という言葉を思い出しています。大塚文庫の開設は、大塚先生の創造的な問題提起を育てた培養器が何であったかを知るための宝庫が出来たという意味で、また同時に、大塚先生が蒔かれた種を大きく育てる培養器ができるということで、意義深い出来事です。 文庫の開設に努力された方々に心からの敬意を表したい思いでございます。
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