『書燈』 No.19(1997.10.1)

前記事⇔⇔次記事


夏が来れば思い出す『ファウスト』 行政社会学部 後藤史子


 アメリカ文学を勉強してもう数十年経ったが、テレビ第一世代の私が若い頃「文学」と出会うには、きっかけが必要だった。テレビや映画はそのきっかけを作ってくれた。中学生時代ローレンス・オリヴィエ主演の映画『ハムレット』をテレビで見て感動し、翻訳をむさぼるように読んだものだ。スタインベックの『怒りの葡萄』を読んだのも、ジョン・フォード監督の同名映画を見たことがきっかけだった。

ゲーテ作『ファウスト』との出会いも、パフォーマンス(?)に参加することがきっかけとなった。大学時代、有志の学生が集まって文学の自主ゼミを作り、独文の教授に指導をお願いした。そこで読んだのが『ファウスト』だが、ただ黙って読んで感想を発表しあうなどという生易しいものではなく、なんと、役を決めて翻訳を朗読し合うのだ。誰に見せるわけでもないが、ふりのつかない演劇みたいなもので、合宿と称して夏の盛り長野まで出かけていき、山の中だの、寺の境内だの、民家の庭だので大声出して読み合わせをする。思い出すと恥ずかしさで冷や汗が出る。

 こうした変わった出会い方をしたこの本は、私の文学への興味をかき立ててくれた一冊だ。学問を究めたファウストが世俗のことをもっと体験しなければ、と思い悪魔に魂を売るところは、大学に入ったばかりで人生経験に飢えていた私にはとても魅力的だった。また、理想国家の夢を抱きながらも実際は民衆を苦しめる政治しかできないファウストの失敗は、今だ心に掛かるものがある。さらにあの自由奔放なワルプルギスの夜の場面。言葉で表現された想像力の凄さを知ったのは、あれが最初だった気がする。

 多様なメディアが入り乱れる現在、若い世代が文学と出会う機会は、私の学生時代よりも少なくなってきているように思う。しかし、メディアにはそれぞれの良さがあるわけで、言葉で表現された想像の世界に遊ぶ機会もまた、失いたくないものである。

(助教授 比較地域文化)


lib@mail.ipc.fukushima-u.ac.jp

書燈目次へ