『書燈』 No.21(1998.10.1)

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抜群の研究環境とボードリアン  行政社会学部 栗原るみ


−日本研究所での報告風景−

オクスフォードには多くの図書館があった。中心は貸出をしないボードリアン図書館。終日図書館にこもって文献を読むというのが、学生の基本型らしい。もちろん現在はノートパソコンの持ち込みもできるし、コピーを頼むこともできる。この図書館は、大英図書館より150年も前の1602年にトーマス・ボードレイ卿によって再建されたという伝統もので、英国とアイルランドで出版された書物は1610年以来全部ここに一部は入ることになっているらしい。外国のものは一生懸命買っているという話だった。

 学部や研究所やコレッジもそれぞれ図書館を持っていて、これは貸出もする。私の滞在していたニッサン日本研究所には、ボードリアン日本図書館が併設されていたが、ボードリアンの図書は借りられないが、日本研究所が持っていたものは貸出可能といった変則であった。そうした複雑な事情を飲み込むまでに、結構いろいろなことがあった。

 ボードリアン図書館は観光でも有名で、特にラトクリフ・カメラはオクスフォードの目印とも言える円形の建造物だ。だが、観光客は建物には入れるし、記念品の売店にも行けるが、図書館部分には入れない。その中の事務所で、写真をとって、宣誓して、入館証を発行してもらえる。私の場合、大学のビジターだというスタッフの証明書を持っていったので、簡単だったが、研究者はそれと証明するものがあれば、入館証は得られるらしい。これを書くにあたって、図書館の手引きを探したが、整理能力欠如のため、ひとつも見つけられなかった。日本でも友の会があり、入っているという日本人にも多く会ったから、その辺の情報は福大の図書館でもきっと分かるだろう。

 全体像を紹介するのは困難だが、使ってみた経験は書くことができる。まだついて間もない頃、せっかく英国へ来たのだから、生の文書を探したいと思った。でも何をどうやって。私は日本の大恐慌の前後の時代の農村や村長のことを研究してきた。だから、それと比較できるような史料はないか、というアプローチを考えた。多分英国において日本の村に当たるのは、パリッシュといわれる教区だろうと当たりをつけた。そしてここら辺の近くのパリッシュの運営に関わっていた人で、日記を残している人はいないか。当たって砕けろ。

 結局私はオクスフォード州のローワー・ヘイホードというパリッシュに住んだ、救貧法の救助官のジェイムス・デューという人の日記とその他の文書の8箱を目にすることができた。ニューライブラリーの西欧の手書き文書室で、それらにであった時は、ちょっと興奮。彼は1864年に生まれ、1928年になくなっているので、時代的には少し早すぎる人ではあったのだが。現在のその村にも、ちょっと訪ねてみた。チャウエル運河の流れる美しいところで、地域新興計画を作るための村の相談が始まりつつあるという話だった。

 ただ英国史の研究は門外漢の私が、いきなりそれらの文書に取り組むのは、いかにも知識不足に思えた。地域史はそれなりに盛んなのだが、経済史の大きな問題もせっかく英国にきたのだから、考えるべきではないか。オールソールズというここも由緒あるコレッジで開かれていた経済史のセミナにでて、あなたの説では、なぜ日本はファシズムという選択をしたと説明するのなんて聞かれて答えに窮したりして、ケインズ理論の浸透過程をめぐる問題に触発されてもいた。初めての海外研修で英語が得意とは言えない私が、何を読むべきか。

 図書館との関係では、ニッサン日本研究所の私の研究室のコンピューターで、オクスフォードのボードリアンとその他図書館全部の所蔵図書を検索ができるようになり、大いに助かった。この目録を検索し、ブラックウエルという本屋さんで買える本は注文する、もう手に入らない本は借りられる場所を探して、借りてコピーすることにした。借りられればニッサンで1月500枚は無料でコピーできる便宜を計ってくれたのだ。

 なかなか苦しい研究生活ではあったのだが、改めて書いてみると、言葉の不自由な人にも、一生懸命対応してくれるライブラリアンの思い出とともに、オクスフォードは美しかったなと、結べるような気がする。


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