『書燈』 No.22(1999.4.1)

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ジャン・ボダン『国家論』(1579年、リヨン)[その2]展示資料解説

経済学部 岩本吉弘


 前回、タイトル・ページのヴィネットについて書いた。今回は、そこからさらに本を開き、序文と目次を過ぎた本文第1ページ目の写真を載せてもらった。なぜかと言うと、この本はなかなか面白い本で、実はこのページを境に一変しているからである。もちろん文章の内容のことではない。印刷技術のことである。この写真を見ながら、書誌学上大切な「版 edition」というものに触れてみたい。

 19世紀以降「ステレオタイプ」印刷というものが出る前は、組んだ活字をそのまま長く保存することなどできなかった。また活字自体貴重だったので、印刷の終わった組版はすぐ解体して後のぺージ分を組むということも普通におこなわれた。たとえ同じ著者の同じ出版者の同じ本でも、新たに活字版が組み直されて印刷されたものは書誌学上は別の本なのである。この各版がどういう関係にあるかを確定するのは、書誌学者や図書館員の重要な仕事になる。このボダンの書の場合はどうなのだろうか。

 本学所蔵版には、タイトル・ページに「Reueuë, corrigeé&augmentée de nouueau.」という一行がある。そのまま訳せば「新たに見直され、訂正され、増補された」ということ、つまりこの本には先行する版があって、それの改訂増補新版だという意味だ。新旧両教派の武力紛争、国内分裂のさなかにあって、統一国家のあり方を論じたこの書は、当時のべストセラーの一つとなる。前回書いたデュピュイが1576年に「印刷特認」を得て(フランスでは1521年以降、ルターを始めとするプロテスタント派の著作の禁圧を主たる狙いに、パリ大学神学部による事前検閲と許可を受けた著作と業者しか出版ができない制度になっていた)、パリで初版を出して以降、毎年のように版が重ねられた。本学所蔵版と版型の同じフォリオ版(2つ折り版)に限り、また明らかな海賊版は除くと、その後、同じパリで77年(これには少なくとも2種のヴァリアントがある)、78年と再版され、その78年の版で改訂が加わり、本学所蔵版と同じ「Reueuë...」の記載がされ、「第3版」と明記された。さらにデュピュイは翌79年に「第4版」と明記したオクターボ版(8つ折り版)を出版する。そしてその同じ年に遠く離れたリヨンで現れるのが、この本学所蔵版だということになる。ここまで見てくると、この版は、パリの業者であるデュピュイが、自らの第4版にあたるものをリヨンで出版したもの、ということになりそうである。

 だがこの版の現物を見ると、どうもおかしなところがある。そこで写真にあげたページが意味を持つ。このページから前と後の部分とは、一見して紙も活字フォントも別のもので、少なくとも同時に印刷されたものとは思われないのである。

 その理由は、この版の成立には、タイトル・ページには現れないある人物が関わっているからであろう。それは、この本の最終ページのコロフォンの「ジャン・ド・トゥルヌ印刷所 1579年」という記載に出てくる。

 ジャン・ド・トゥルヌ印刷所。ロべール・グランジョンという天才的な活字デザイナーを抱え、16世紀における印刷史上の傑作と呼ばれる作品を次々生みだした業者だった(トゥルヌ家については数年前に大佛次郎賞を受けた宮下志朗『本の都市リヨン』に詳しい)。本学所蔵版はデュピュイの出版物としてタイトルページが付けられているが、少なくとも本文部分はそのトゥルヌ(当時はⅡ世)の印刷によるものである。加えて興味深いことは、例えばカルチエのトゥルヌ書誌などを見ると、実はトゥルヌは同年、この自分の印刷した同じ本文部分に、デュピュイのものとは別に、自分自身のタイトルページを付したものを出版しているということ、また翌年にはデュピュイのタイトルページの付いた80年リヨン版というのが出ているが、これも実は本文部分は、この前年のトゥルヌの印刷物だということである。つまり同一の本文印刷に対して、3つの異なるタイトルページの付いたものが存在するということになる。

 売れ残りのシートに新しいタイトルページや補遺を付けて、あたかも新本のように仕立て直すということは珍しいことではなく、それは書誌学上は「版」という用語ではなく「issue再販」という用語で区別される。まあそれはいい。デュピュイは、自分の各版に明記しているように、このボダンの書について、自分以外の「他のあらゆる出版・印刷業者に本書を印刷することを禁じる」という10年間の特認を持っており、カルチエは、トゥルヌとの関係について、2人が「版を分け合った」と書いている。だがどうも気にかかるのは、この本学の所蔵する79年デュピュイ版の、タイトルページ・前付け部分と、トゥルヌの名のある本文部分との印刷上の強い落差である。これはどうしたことか、80年版を見ても感じられない。両者の関係は、例えばデュピュイが印刷を委託したといった平和的な契約関係だったのだろうか。

 ここからは手元に資料もないままのまったく私の想像で、どなたかに教えを請いたいところであるが、もしかするとトゥルヌは、最初から違法を承知で自分の版を出版し(例えばフランス国内よりもプロテスタント圏への輸出用にでも)、その後それを察知したデュピュイがトゥルヌに対してこの版の所有権を主張し、とりあえず79年販売分については、別に印刷した自分のタイトルページを付けるよう強制した、実はこの版の背後には、そういう“事件”でもあったのではないか、そういう想像に駆り立てられるのである。これは、この79年版の前付け部分はトゥルヌの印刷ではないのではないかという印象と、事実別にトゥルヌ自身の出版分が存在するということからの想像にすぎない。トゥルヌ家の記録や使用活字の研究から明らかにしうることで、またすでに明らかになっているのかもしれない。だが、新旧両派の衝突¢ではなくその政治的調停と平和を求めたボダンの書の性格、当時「隠れプロテスタント」だったというトゥルヌや当時のリヨン市の位置などを考えつつ、そういう想像をしてみるのも楽しい。

 いずれにせよ、このリヨン版は、ボダンのテキスト研究というよりも、むしろ、西洋印刷史上の巨星の一つであるトゥルヌ家晩期の印刷物としての価値が高いと思われる。この書を開いていき、写真のぺージに入ると、同じオールド・スタイルのローマン体活字でも、それがはるかに美しく、鮮明さとやわらかさを調和させていることは誰でも感じざるえないだろう。また4人の天使をあしらったモノグラム(文頭の飾り文字)や、気品のあるフラワー・ボーダー(花罫)などは、16世紀の芸術作品としても価値を持つ。新旧両派の血なまぐさい内戦の中で、この版の印刷された1579年のリヨンの出版界はもはや落日の中にあり、トゥルヌ家自身、プロテスタント迫害の嵐によって、わずか6年後には故国を捨てジュネーブへの亡命を強いられる。この本学所蔵版に漂っているのは、ルネッサンス期の印刷美術の最後の香気のようなものである。


gakujo@lib.fukushima-u.ac.jp

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