福島大学附属図書館報 『書燈』 No.28(2002.4.1)

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映像情報社会と読書
館長 勝倉 壽一

 若者たちの活字ばなれ、書物ばなれが言われて久しい。その一方で、情報機器の急速な発達と普及によって、若者たちの周辺には雑多な情報が溢れている。インターネット、メール、チャット、携帯電話、そのどれも活用手段として言葉(文字)による表現が基本になっているのだが、現実には文字情報から映像情報へと加速度的に移行しつつあるようだ。

 ある中学教諭によれば、「ムカツク」「キレる」生徒に著しい特徴として、感情表現語彙の極端な少なさがあるという。語彙量の乏しさから「ムカツク」一語に感情表現の微妙なニュアンスを包み込み、互いにその具体的事実には触れない。また、自分の思いを他者に伝える語彙量の乏しい生徒は人間関係に行き詰まり、「キレる」のだという。問題は、本人自身が「キレた」原因や理由、事情を説明する語彙量も表現方法も、その意志さえ持たないことである。

 しかし、これは特定の世代の、感情の制御能力の乏しい短絡的な、直情的なごく一部の若者に見られる特異現象であろうか。若者が読むマンガも映像表現を主とする劇画が主流になり、ほとんど活字は見られない。若者に人気のあるテレビ番組は流行語の不規則な放射であり、ゲームソフトの膨大なストーリーに含まれる語彙は極めて少ない。いわば、若者たちを取り巻く環境そのものが、とめどなく文字情報から映像情報へと移行し続けているのである。生々しい説明的な映像、画一的な思考の方向づけに対して、ただ受動的にそれを受け入れ、思考や語彙の獲得が衰退する。「ムカツク」「キレる」はその予想されるべき結果ではなかったか。

 このような現実に危機感を抱いた教育現場では近年読書の大切さが認識され、読書時間がカリキュラムに取り入れられるようになった。先日の中教審の答申でも幼少年期に「家庭での本の読み聞かせ」、高校で「各校の必読書三十冊指定」、大学で「古典リストの提出、読破」などの項目を挙げて、遅ればせながら成長期における読書の重要性を説いてはいる。しかし、そこに映像情報社会における読書の意義についての明確な認識は乏しい。

 映像と文字表現とは根本的に区別される。急速度で映像の時代に入りながら、いまだに文学が文字表現を事とするのは、映像では表現できない世界があまりに多く、独自の機能が存在するからである。

 言葉は伝達を本来の機能としており、概念を記号化したものである。したがって、表現や描写を重んじる文学においても、表現力にすぐれた機能を発揮することは難しい。それゆえ、作者は文字から映像を組み立てる精神的な営為を読者に要求する。文学では言葉の論理を辿りながら、読者は自らの経験を基にして独自の映像を組み立てる。読者は作品の文字から想像による映像化という創造的な営みを行っているのである。

 書物は作者が伝達内容を文字表現を通して、読者の脳裏に刻印しようとする営みである。この場合、読者はその伝達内容を読解し、分析し、評価する。その過程で共感・共鳴、あるいは違和感、反発・批判・拒否など、さまざまな反応を示すことになる。

 いわば、読書とは書物を通しての作者と読者の一対一の対決である。良書と呼ばれる書物であれば、作者はその意志の伝達のために精神的営為のすべてを書物に傾注する。読者もまた自身の思索や体験や知識を力として、作者に対峙する。その不断のトレーニングが、映像情報社会では特に必要であろう。

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