『書燈』 No.20(1998.4.1)

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”いまめく”附属図書館 教育学部 井実充史


 福島大学附属図書館報である「書燈」の原稿執筆を依頼されて安易に引き受けてしまいましたが、大学の図書館についていざ何かを書くとなると、とたんに筆(=キーボード)が鈍ってしまいます。というのも、ぼくは附属図書館が苦手だからです。また、もう一つの筆を鈍らせる理由として、この文章をいったいいかなる立場から誰に向かって書けばいいのかという問題がありました。“そんなものは決まっている。教官の立場から学生に向かって教育的内容を書けばいいのだ”と言うのであれば、学生が感心してくれるほどの大学図書館に関する知識や見識のないぼくは不適格となるでしょう。それでも、ぼくに書けることなどあるのでしょうか。そんな不安を抱えながら、とにかく何か書いてみることにします。

 図書館を読書という営みを行う場として考えた場合、ぼくは現代的でさっぱりとした大学図書館は苦手です。情報の宝庫として、大学図書館の有用性は僕も大いに認めていますし、また、その恩恵も有り難く感じております。それにもかかわらず、現代的でこざっぱりとした大学図書館という空間に愛着がわいてきません。どうも、そこに流れている空気がいやなんですね。たとえ禁煙と飲食禁止のはりがみがあっても、嗅覚では感じられぬニオイがただよっています。図書館というよりは、まるで“自習室”といった雰囲気がだめなんですね。試験前など最悪で、図書館から本を借りて読んでる人、ほとんどいないんじゃないでしょうか。

 大学図書館はかつて(あるいは大学によっては今でも?)学問的権威の象徴のようなところがありました。凡人には近寄りがたい空間というか、入ると肩でもこってきそうな場所というか。とにかく他を寄せ付けぬ閉鎖的な空気がただよっていたような気がします。閉架形式というのがその象徴でしょう。“我が大学図書館は我が大学に属する者のみ書籍を貸し与えるものである。我が大学図書館は大学院生以上の者のみ閉架書庫に入庫できるものとする。”学閥と身分秩序——閉架形式に当局側によるそういう意志が感じられます。開架・閉架併用の福大附属図書館はその中間を行くといったところでしょうか。ただし、福大の場合は権威の誇示というよりは、図書管理に割ける労力に限界があるため、止む終えず閉架形式を残しているものと推測しますが。

 そういった閉鎖性を打破する方向で、昨今大学図書館が動いているようです。その運動については基本的に賛成したいと思います。福大の図書館ももちろんそうした方向に進んでいるようですが、ぼくの知っている例でいえば、ぼくに卒業・修了証書をくれた大学の図書館は、かつては学部学生が閉架書庫から閉め出されていましたが、ぼくが院生になって数年で大学図書館が新装オープンし、同時に学部学生も閉架書庫に入れるようになりました。その結果、今までよりはるかに多くの学部学生が大学図書館を利用するようになりました。4年生になって卒論を書こうとするとき閉架の不便さに閉口させられ、閉架に入れる大学院生がうらやましくて、学部学生という身分の不遇さを嘆いていたぼくらの学部学生時代はもはや過去のものでした。しかし、図書館の利用方法に決まりはありませんから、そこは恰好の自習室となりはてました。とくに司法試験の近づく季節は、読書室だけでなく閉架書庫に用意されていた席までもが持ち込みの六法全書に埋め尽くされるという有り様でした。

 ぼくはこういう状況について批判するつもりはまったくありません。むしろそれを是認するものです。開かれた図書館とは実際はそういうものなんでしょう。自習室代わりに利用していいんだと思います。でも、図書館は読書にふけるところという化石的な思考の持ち主には、そのような利用をしている人でも、もしかしたら、ちょっと勉強に飽きたとき、書棚のまわりを散策してふっと手に取る本があるかもしれないな、と思わず考えてしまいます。それがその人の人生にとって貴重な本になるかもしれません。大学図書館が開放的であれば、多くの人にそんな機会が増えてくるのではないでしょうか。

 最近、またまた新しいコンピュータが導入され、検索画面がすっかり変わってしまいました。突然新システムが到来してとまどうばかりですが、おそらくより便利になっていることでしょう。機能性をますます高めていく大学図書館には、つれづれを慰める読書ではなく、ちゃんとした目的意識をもった自習という現実的な利用法がふさわしく思われます。その流れを止めることはできないし、その必要もない。そう自分に言い聞かせています。 

(古代文学 日本漢詩・和歌)


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