『書燈』 No.21(1998.10.1)

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ジャン・ボダン『国家論』(1579年、リヨン)[その1]展示資料解説

経済学部 岩本吉弘


 今、図書館カウンター前の展示ケースには、ジャン・ボダンの『共和国六書』(通常『国家論』と呼ぶ)1579年リヨン版が置かれている。近代的な国家主権論を初めて概念化したことで世に知られる政治思想史上第1級の古典であり、また本学図書館の蔵書中最も古い資料と言われる。せっかく貴重な書物の実物を間近に見ることができるわけだから、ここでは私は、ボダンの政治思想の一般的な解説よりも、この書(というよりもこの版)について、読むと言うより眺める側に立って、書いてみようと思う。1450年頃のグーテンベルクの発明に始まる西洋の活字本の歴史は長く深い。だが、今ここにある四百年以上前に印刷された1冊の本をしばし眺めてみることでも、その一端には触れられる。

 まずは、開かれているタイトル・ページを眺めよう。上段の書名の部分と下段の出版地、出版者などの出版事項の間の、何やらいわくありげな大きな木版画(このような書物の装飾画を「ヴィネット」と呼ぶ)が目に入る。まずこれから始めよう。

 井戸を挟んで聖人と一人の女性が話をしている。聖書に詳しい方はお分かりだろうが、これはヨハネの福音書にある「イエスとサマリアの女」の話を描いたものだ。聖書によると、イエスは井戸に水汲みに来た女にこう語っている。「この水を飲むものは誰でもまた渇く。だが私が与える水を飲むものは決して渇かない。わたしが与える水はその人の中で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

 これは現在の我々の感覚では、本の内容に関連した挿し絵のようなものかと思うが、そうではない。「パブリッシャーズ・ディヴァイス」などと呼ばれる、つまりはこの出版業者の商標、看板のようなものである(例えば岩波書店の「種播く人」のような)。本の冒頭に我々が今思うようなタイトル・ページというものが付けられるようになったのは、何も最初からではなかった。活字以前の手書き写本の時代には、タイトルというものを名詞句のようにして独立に冒頭に書く習慣はなく、また写字生が自分の名前を記すこともほとんどなかった。印刷業という新しい職業は、15世紀半ばに写本時代の習慣を引き継ぎつつ出発する。今我々の思うようなタイトル・ページというものは、その後16世紀にかけて急速に拡大したこの新しい職業人たちが自らにふさわしい営業形態を作り出す過程、もっとはっきり言えば、ある程度匿名化した顧客に自分の商品と自分の企業名を売り出そうとする努力の過程で徐々に現れてくる(一部の国では最後に決定づけるのは国家による統制であるが)。

 印刷業者たちの自己主張は、当初コロフォン(本の最終ページの奥付け)に現れた。彼らはそこに、自分の名前や出版年などの他に、各々独自のマークを考案して印刷するようになった。一方、本の冒頭部分には、「パラグラフ・タイトル」(本文の最初のパラグラフを切り離して最初のページに印刷したもの)や「バスタード・タイトル」(略題紙)といった、読者のためのタイトル・ページというより書籍商の目印に近いような簡略なページが置かれるようになる。我々が今思うようなタイトル・ページとは、コロフォン部分にあった出版者自身に関する情報が表に進出してくるようにして成立する。今目にしているボダンの書のように、上からタイトル−ヴィネット−出版事項という、現代でもよく見られる3段構えの配置が定着するのは16世紀前半である。

 このパブリッシャーズ・ディヴァイスというものは、当初は簡単な文様のようなものだったが、16世紀に入って非常に大きくまた手の込んだ絵柄のものが現れる。このボダンの書に使われているものも、その一例である。

 このディヴァイスの持ち主、つまりこの本の出版者は、ページの下段に名前があるようにジャック・デュピュイという人物である。1540年から1591年にかけて親子でパリで活動した出版業者である。デュピュイがこの聖書中の逸話を選んだのは、その名前du Puysと「puits 井戸」という語をかけたものにちがいない。上のイエスの言葉も出版業者のモットーとしてなかなかいい。デュピュイは、このボダンの書に使った図柄の他にも、この「イエスとサマリアの女」で異なる図柄のディヴァイスをいくつか持っており、同じボダン『国家論』でもパリ版には別のものが使われている。また、1582年に出版した『プリュターク英雄伝』にはこのリヨン版と同じ図版を使っている。

 写真では見にくいかもしれないが、この図の井戸の部分の中心あたりに、アルファベットを含んだ楕円形のマークのようなものがあるのに目を留めていただきたい。I・D・Pという文字はもちろん彼のイニシャルである(ちなみにiとj、uとvの区別が一般化するのは17世紀である)。またその上のバーが2本ある十字架は、15世紀以来各地の印刷・出版業者のディヴァイスに非常によく用いられた図柄である。はじめ15世紀時点ではこの円形のマークほどの簡略なものから始まったディヴァイスが、16世紀にこの図全体のようなものに大発展したわけである。

(つづく)


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