福島大学附属図書館報 『書燈』 No.29(2002.10.1)

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「北都の55日」−英国での図書館体験ー
菊池 壮蔵

  ふと昔に見た『北京の55日』という映画のシーンがその主題歌とともに脳裏をよぎる。時は1900年。歴史上の「義和団事件」(北清事変)を題材とした作品である。欧米列強に並ぶことに血道を上げてきた明治ニッポンは,この時期、清朝中国へ襲いかかる狼の群れの一員だったのである(ほどなく仲間割れが始まるのだが)。その翌年、夏目漱石は最初の文部省派遣留学でロンドンに到着、ヴィクトリア女王の葬儀に出会うことになる。日英同盟が締結されるのは1902年のことである。それからほぼ百年後、私はロンドンにいた。考えてみれば漱石は、今の私の年齢までは生きなかった。が、現地での彼の心情はしばしば私の胸をよぎった。

  約55日間の英国滞在は、年来の準備や計画に基づいたものでなく、慌ただしく決まったものだった。年度内の帰国を条件として3ヶ月を越えなければ先方からの招請書類不要との規定により、また、1月25日に附属図書館大塚久雄文庫の開設式の準備を行うというスケジュール上の都合から、結局、直後の1月29日に取るものもとりあえず出発し、卒業式前には帰国するという日程になった。

  この期におよんで…、という意識もなくはなかったが、現場でしか得られないもの、つまり皮膚感覚・空気・距離感等を体感するほかはないと思った。大抵のものは、インターネットで入手可能になっているから、帰国後でも可能なものは意識的にはずすつもりの旅行だった。ここでは、英国内の図書館での二三の体験について書いてみたいと思う。

[ロンドン]                                                      [写真1]
  ロンドン大英博物館の閲覧ホール[写真1]。現在、大英博物館の図書館機能は大英図書館と分離されているが、博物館中庭に往時のまま復元された(中心部に電子百科サービスが整備されてはいるが)。政治難民だったマルクスもこの場に通って経済学を勉強したのである。木製の椅子に尻のあとがつくほど通いつめたという伝説もあるが、そういうデザインの椅子だったということを見つけ、微苦笑する。

  この博物館の収蔵品目の膨大さとその整理にかけた人手と時間を想うと眩暈を催す。畏怖を感じたのは建造物の壮大さではなく、かく利用されることを考え、莫大な資金と技術とを駆使してこのような建造物を構築したその「思想」にたいしてであった。

  帰国直後、TVで漱石の孫の房之介氏がここを訪れた番組を偶然に見た。ドームの下に立った彼も、息をのみ、私と同じ感想をもらしたのだった。こういう発想と努力をいとわない文化がいまの日本にあるだろうか、と思う。

 [エディンバラ]
  エディンバラは古都である。なにしろ、ニュータウンという名の区域が18世紀末の建設開始なのだ。町の古書店には「学生二割引」の文字も見える。学術都市の伝統も息づいている。

  この地には大きなものとしては、エディンバラ大学図書館と国立図書館および市立図書館、さらにナショナル・アーカイブ・センターが存在する。最後のものは、元のScottishRecordOfficeが編成替えされて組織された。最近ではデータがネットワーク対応に整備され、どのような古文書がどこにあるかが即座に把握できる。わが国での、この種の[公]文書館の重要性やその整備に対する社会的意識とは相当の差がある。ここで、J.アンダソン(1739-1808)という人物の資料がスコットランド国立図書館とアバディーン大学にあることを確認する。そのレファレンス・ルームで、カードをめくりながら、ふと見回すと、その部屋の参考図書は本学では「貴重書」に入っている部類も多く、それらがいかにもあって当然のようにさりげなく並んでいた。

 [アバディーン]                                                   [写真2]
  スコットランドの北東、北海に面したアバディーンは美しい花崗岩の都である。北海油田の基地として経済的には豊かな印象を受ける。アバディーン大学(King's Collage)[写真2]はすでに明治38年の秋に創立400周年祝賀行事をやっている(辻村伊助『ハイランド』平凡社ライブラリー、にこのことが記載されていることを後に知った)。市内中心部の公共図書館も充実しており、係にScots Magazineの1809年刊行分を見たいのだがと説明すると、その辺の椅子に座って待っててください、という。ものの5分とたたないうちに、件のレイディは、「はい、これですよ。」といった感じで無造作に手渡してくれた。コピーカードを購入すれば、20円/@ほどでセルフサービスコピーも可能だった。高校生や老婦人が隣で勉強している公共図書館で、200年ほど前の雑誌が、「ひょい」とでてきて閲覧できるというのは、羨望の極みというほかはない。

  大学(King's Collage)図書館の利用も、飛び込みだったが、いずれも実に親切な対応だった。特別史料館では、入り口のコインロッカーに荷物とコートを預けて、利用者名簿に必要事項を書き入れて利用する。エディンバラで確認してきたモノを調べてもらう。でてきたのは、細紐で十文字に結ばれたA3二つ折りの厚紙に挟まれていた。閲覧専用の厚いスポンジの下敷の上で紐を解くと、それらはいずれも筆跡や大きさもさまざまな、おそらくは羽根ペンで書かれたであろう手書きの紙束であった。一瞬絶句する。「おいおい、こんなモノ読めるのかよ。出直した方がいいんじゃねえのか?」と内心つぶやく。深呼吸して、文字列をにらむ。大学院生時代に「手書ドイツ語亀甲文字の筆記体」の判読を試みた記憶がよみがえる。なんとか読めるものもありそうだ。1740年代からの地代の領収書がある。領主の婆さんのモノはスペルも文法もいいかげんで読みづらい。次の世代の旦那は高等教育を受けた様子もみえ、しっかりしたものである。婚姻契約書も出てきた。これは透かし入りの紙で、印紙も張られている、正規な手続きに従った法的文書なので、貴婦人の手紙などよりはるかに判読が容易であった。夫婦それぞれ用に二部あり、同一内容ながら各々別人の筆跡だったので比較しながら読めたのは幸いであった。が、実に興味深いその内容の紹介は別にゆずる他ない。

  もうひとつ見ておきたかった1808年の雑誌の所在は、聖母図書館にあることがわかったが、旅行日程の都合上、その時点では立ち寄れなかった。インバネスに移動してからも、どうしても気になり、再び列車でアバディーンに日帰りの旅を試みる。石畳の通りを歩いて訪れた聖母図書館は、学生で込み合っていた。エントランス・ホールでは、廃棄処分図書の販売コーナがあって驚く。カウンターで目的の雑誌の確認をしたところ、コンピュータで検索して、地下の書庫のどこそこの区画にあるという。たたずんでいると、そこの階段を降りて移動書架の奥の側の左から何番目だという。行けばわかるはずと言われ、いわれたとおり自分で地下の書庫にもぐる。なんて開放的なんだ。感動する。18,19世紀以来の雑誌類の現物が整然と並んでいるその書架の間を歩いて目的の巻に辿り着く。見れば書庫の端にあるいくつかのキャレルの脇にカード式のコピー機もおいてある。現物を手にカウンターに戻る。親切にも、当該ページのコピーを頂けたのである。

  研究・調査活動に対するバリアフリー環境とはこういうものなのかと、あらためて「身の震えるような体感」を覚えたのであった。だが、このような環境は一朝一夕によく整備されうるものではないだろう。羨むだけではいけない。

  ロンドンのホテルで見た子供向けのTV番組に、「大人の仕事・ガーデナー」(庭師)体験というのがあった。オーバーオール姿の5,6才の子供が芝張り仕事を済ませ、張ったばかりの芝をペタペタたたきながら、最後に満足そうにこう言ったのだ。 「これで、百年も手入れすれば、見事な芝生になるというもんだ。」

(経済学部教授)

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