福島大学附属図書館報 『書燈』 No.30(2003.4.1)

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前向きに行こうぜ
荒木田  岳

   「使えない図書館だなぁ」という声を赴任以来何度か聞いた。本学の附属図書館に対する意見であるが、どうもそれには2つの意味があるらしい。

  しかるべき場所に図書が並んでいないという意味と、蔵書が少ないという意味の2つである。前者については、昨年度、行政社会学部の教員が提案して図書館整理ボランティアを組織したことがあり、自身のHPにも思うところを書いたことがあるのでここでは繰り返さない。今回は後者の「蔵書が少ない」ということについて書いてみたい。

  蔵書が少ないことは、地方大学ではさほど珍しいことでもない。むろん、それを是認するつもりはないが、少ない蔵書を嘆くよりも「蔵書の少ない図書館には、少ない図書館なりの使い方がある」と考えた方が生産的ではないかと思うのである。

  地方の国立大学で修士課程時代を過ごした者として、自らの経験を述べたい。基礎文献の所蔵すらあやしい大学で研究を続けることは「スリリング」である。今ほどコンピュータ入力も進んでいなかったため、どうせ見つからないだろうな、と思いながら日々図書館に向かった覚えがある。

  目当ての本が見つからないときにどうするか。当時も、国立大学相互貸借で他大学から取り寄せるという方法があった。しかし、2冊の本を取り寄せて、夏目漱石が3人ほど手許を去るのを見て、財力が研究の行く末を決する、という思いを強くした。これでは研究を続けられない、と思った。

  その後、気を取り直して、蔵書が少なくても書ける方法を考えることにした。研究環境が研究を左右するのは事実であるが、それを超える研究方法を持てば、そのハンディは克服可能だと考えたのである。つまり、「当該資料を取り寄せるコスト」と「取り寄せて得られる知見(=ベネフィット)」を比較して資料収集を厳選し、資料の欠如はイメージで補うということである。そのためのイメージを豊かに持てるかどうかが、鍵を握ることになる。

  そう書くと、原資料に当たることが研究のイロハだ、という反論は必至である。しかし、ない袖は振れない。これは経験したものにしかわからない「痛み」であろう。他方、膨大な資料が手許にはない代わりに、時間が残った。この時間を使って「論理的な枠組みを鍛えイメージを豊かにする」という方法を重視した。ところが、これは精神的なプレッシャーである。手許のカードは少なく、思い悩む時間は無限に存在するからである。

  しかし、体を動かし、「いい汗」をかくことが少ない分、いかに作業が進行していないかをリアルに自覚することができるのはメリットでもある。  おおよそ上記の意味で、地方国立大学で学ぶことにはメリットがあると、私は思う。「お付き合い」が少ない分、自分自身と向き合って、強靱な精神力を養うことができれば、それは一生の宝になるはずである。

  「世の中は実に不公平である。不公平を是正できなければ、与えられた条件下で、よりよい成果をあげるしかない」。そんな貧乏なことを書かせる、今日の時代風潮を恨まずにはいられない。しかし、その風潮を自らも担っているわけで、問題は、そうした被害者意識を超えて、どういう学問的展開が社会的に可能か、という点にあるのだろう。

  「短い学生生活、前向きに行こうぜ」                                                                        (行政社会学部助教授)

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